|
白の風景 中村もとこ(文鳥堂)
一
氷が溶けていく。私はぼんやりとそれを見つめる。暑い、暑い、夏休みの午後。
氷を齧ろうと思って冷凍庫から出したのだが、気が変わりそれをお膳の上に置いてみた。そしてお膳の上に突頬杖をつき、氷が溶けていく様子をぼんやりと、見るともなしに見る。
クーラーも扇風機も止めてあるので、じっとしているだけで汗が出てくる。
窓の外から蝉の鳴き声と隣の家のテレビの音が聞こえる。高校野球だ。この大会に出場している選手の何人かはそのままプロになるのだろう。そう考えると同じ高校生とは思えない。
家の中はいやに静かだ。さっき台所で母が何かしていたようだったが。
私は、ふと犬の事を思い出した。
少し前まで、家には「白」という名の犬がいた。白は突然、それこそ白い湯気のように姿を消してしまった。
その朝、庭にいるはずの白がいない事に気づいたのは私だった。
庭に残った首輪は輪の形をしていたし、門はちゃんと閉まっていた。誰かが白の首輪を外して、また元の通りに留めておいたというのはちょっと考えられないし、そんな事をする必要があるとも思えない。
それに、わざわざ盗むだけの価値が、白にあるとは思えなかった。白はただ体が白いだけの雑種の中型犬で、もうずいぶん歳をとっていた。最近は足も少し悪くなっていた。
私は台所で先に朝食をとっていた父と母に白が居ない事を告げ、まだ眠っている弟を起こしに二階へ行った。弟の浩史は中学二年生で、くりくりとした坊主頭をしている。愛嬌はあるがどこか抜けているので、きっと女子にはもてないだろう。
門が閉まっているので、ひょっとしたら白は敷地内にいるかもしれない。いや、いればいいなと思った。浩史が着替えている間、私は庭を探した。庭といっても狭いものなので、せいぜい縁の下を覗いてみるくらいだ。
すぐに戻ってくるかもしれないと思い、白の朝食は小屋の前に置いておいた。
私と浩史は朝食に合流した。母が「白ちゃんどこにいったのかしら」と言った。
「ひょっとして、渡辺さんの家じゃないだろうな」と父が言うと「まさか」と母が答えた。「渡辺さんの家なんて、もう何年も連れて行ってないのよ。覚えてるわけがないじゃない」
渡辺さんというのは父の友達で、白をくれた人だ。最後に白を連れて行ったのはもう十年くらい前だし、その時は車だったので、さすがに白も道を覚えていないだろう。
「ご飯食べ終わったら近所を探してみる」と私が言うと、母は「車に轢かれたりしてなきゃいいけど」と言った。急に気温が二、三度上がったような気がした。
テレビの天気予報が「今日も三十度を越す真夏日になりそうです」と言った。
父は先に食事を終え仕事に出かけた。弟はご飯をおかわりしている。そんなに体が大きい方ではないのに、よく食べる。これから大きくなるのだろうか。
白と言う名前は母が付けた。白が居なくなった時、母が「白の名前は『白』という小説から採った」と言った。
後日私は文庫本を買ってその小説を読んでみた。
主人公の「白」は、友達の「黒」が犬殺しに捕まったのを見捨てたために、黒犬に姿が変わってしまった。飼い主に見放された黒犬の「白」は日本中を放浪する。そして、結果的に善い事を重ねていき、最後に元の白い犬に戻り、飼い主にも温かく迎えられる――という話だった。
母は子どもの頃にこの話を読んで、大変感動したそうだ。そして、真っ白な子犬が家にもらわれて来た時、迷う事なく「白」と名付けたのだそうだ。わたしはそれまで、単純に体の色が白いから「白」だと思っていた。
歯磨きをしながらもう一度庭を見てみたが、白は帰っていなかった。
私と弟は、Tシャツに膝までのズボンという似たようないでたちで自転車に乗り、それぞれ違う方向に分かれる事にした。さぁ、行こうか。
私は白の散歩コースを辿った。白の散歩に付き合うのは、最近では土曜か日曜くらいしかない。朝はとても起きられないし、夕方には部活があり、帰る頃にはもう日が暮れている。
私が近寄ると白はパタパタとしっぽを振って「みすずさん、お散歩に連れて行ってくれるんですか?」と言う。昔はただ「お散歩に行こう!早く!早く!」とはしゃいでいるだけだったが、犬とはいえ歳を取るとさすがに落ち着きが出るようだ。もし白が人間だったら、粋なじいさんになっていただろう。
白は時々、私の目を覗き込むことがあった。わたしが小さく頷いて「さぁ、行こうか」と言うと、白は安心したように首を振り、歩を進めた。白はいつも私の事を心配してくれている。
私はどちらかというとまともな人間なので、犬に向かって悩みを打ち明けたりなどはしないが、白は私が思っている事を漠然と感じるらしかった。なんとなく不安だとか、なんとなく躰の調子が悪いだとか、そういった単純な事だ。
ゆっくり漕いだつもりだったが、ものの五分としないうちに散歩コースのメインになっている公園に着いた。自転車を降りると、どっと汗が出て来た。緑が多いので家の近所以上に蝉がうるさい。耳を覆いたくなる程だ。こういうのを蝉時雨と言うのだろうか。
ここは団地ができた時に一緒に造られたちょっと大きめの公園だ。右手には藤棚や花壇があり、ベンチがいくつか並んでいる。左手にはジャングルジムや滑り台、ブランコなどの遊具設備がある。そして、真ん中あたりに「十」の形をした大きな土管トンネルがある。
夕方には団地の子や近所の子ども達がよく遊んでいる。犬の散歩をしている人も多く、一オクターブ高い声で互いに犬を褒め合い、自分の飼い犬の事を「ウチの子」と言う犬好き奥様をよく見かける。団地はペット飼育禁止だが、こっそり子型犬を飼っている人も多いようだ。
私が小学校四年生くらいだった頃、白の頭に赤いリボンを付けてみた事がある。白が困ったような顔をして首をすくめたので、私は却って意地になり、リボンを取らなかった。
その後、母がリボンを取ろうとした時、白は「せっかくみすずさんが付けてくれたから、このままでいいです」と言ったそうだ。それを聞いて私は悲しい気持ちになり、何も言わずに白の頭からリボンを取った。白も何も言わなかった。けれど、やはりどこかほっとした表情を見せたので、それが少し憎らしかった。
数年後、私が中学に上がった頃だろうか。この公園を散歩していた時だ。服を着ている犬を見て、白が「みすずさん、白はあんな風に服は着たくないです」と言った。私も普段から犬に服を着せるのは滑稽だと思っていたので「白に服を着せるつもりはないよ」と答えた。白は「そうですよね、犬が服を着るなんて、変ですよね。それに、白にはこんなに白くて素敵な毛皮があるんですから」と言った。
その時は何も気づかなかったが、ひょっとすると白はリボンを付けられた時から、いつか私に服を着させられると考えていたのかもしれない。白の性格からすると、それを告げるのは一大決心だっただろう。数年間、そんな事を思い続けていたのか、それともたまたま思い出したのか。
自分が白い犬であると言う事を、白はとても気にいっていたようだ。けれど、もし白が茶色の毛を持っていればそれを気にいっただろうし、ブチだったらそれを素敵な模様と思っただろう。とにかく欲の無い犬だ。もっとも、欲のある犬なんてあまりいないとは思うけれど。
日ざしが強まり、蝉の声がいっそう大きくなった。
自転車を公園の入り口脇に止め、中に入った。公園では小学生の男の子が何人か遊んでいる。
木陰の辺りを探してみよう。もし白がいるとすれば、たぶん涼しい場所だ。
反対側の門の辺りが木の茂みになっているので、私はそちらに向かって歩き出した。私の影が私の行く手に小さく伸びている。朝見た時よりずっと濃くなっているようだ。
歩いていて、ふと、ある考えが脳裏をよぎった。ひょっとしたら私達家族の誰か――または全員に恨みのある人間が、白を連れ去ったのかもしれない。私はゾッとした。誰が何を考えているかなんて分からないし、あり得ない事ではないのだ。私には直接心当たりがないが、私の事を疎ましく思っている人はきっと何人か――あるいはたくさん――いるだろう。
低い木立の茂みの前に立ち、私は小さく「白」と呼んでみた。返事はなかった。がさがさと木をかき分けて中に入り、もういちど「白」と呼んだ。白はいない。諦めて外へ出た。
気が付くと右足のふくらはぎを二箇所蚊に刺されていた。掻くのを我慢して自転車の所まで戻ると、刺された所はぷくっと腫れていた。私は爪を押し付けて十の字を作った。
自転車で公園の外側を走り、団地の中に入ってみた。八つの棟がきっちりと二列に並んでいる。もし、管理会社の人に見つかったっていたら保健所に連れていかれたかもしれない。なにしろ、今の白は首輪をしていないのだ。
ああ、そうだ、保健所に電話しておかなければ。
団地の中をぐるぐると回ってみたが、やはり白の姿はなかった。
暑さのせいかふらふらして来た。もう昼に近い。一旦家に帰ろう。
弟はまだ帰っていなかった。きっと川の方へいったのだろう。
母はすでに保健所へ電話していた。今の所白い犬は保護されていないそうだ。とりあえずほっとしていると、母が「ぼけっとしてないで、迷子の貼り紙を作りなさい」と言い残して台所に消えた。
私は部屋からレポート用紙を持って来て、居間に戻った。さて、何と書けばいいのだろう。「迷い犬募集」いや違う。「犬、冷えてます」「きみも警察の犬にならないか」…ああ、駄目だ。まともな文章が浮かばない上にギャグさえも不調だ。
母が台所から顔を出し「みすず、お昼そうめんでいい?」と聞いた。
「私はかまわないけど」
「そう、じゃぁそうするわ。浩史は何でも食べるから文句は言わないでしょ」
そう言って一旦顔を引っ込めたかと思うと、母はまたひょいと顔を出した。
「白の写真は入れないの?」
そしてまたすぐ顔を引っ込めた。
そうだ、何か足りないと思っていたら写真だ。頭がぼうっとして、そんな当たり前の事にも気が付かなかった。
私はまた部屋に戻り、扇風機のスイッチを入れた。そして押し入れの中からアルバムを引っぱり出した。アルバムは全部で三冊ある。やはり新しい物から見ていくべきだろう。
遠足や体育祭など、学校で撮った写真が多い。十ページくらいめくった所で白が写っている写真が出て来た。庭で私と弟が草むしりをしている所だ。けれど、肝心の白の顔が丁度弟の影に隠れていて、体しか写っていない。写真には三年前の日付けが入っている。
結局このアルバムの中で白が写っている写真はこの一枚だけだった。私は二冊めのアルバムを手に取った。
二冊めのアルバムでは使えそうな写真が何枚かあった。犬の外見なんて、大きくなってしまえばそう変わらないものだと思っていたが、こうして見ると微妙に変わっている。年月によって、やはりそれなりに貫禄というものがついてきているようだ。
見る必要はないのだが、私は一番古いアルバムに手を伸ばした。私もまだ小さいし、白も子犬だ。このアルバムには白が写っている写真も多い。
私は、ある写真に目を奪われた。犬小屋の前で私と母と弟と、そして白が写っている。これを撮ったのは父だ。写真の中の母は今よりずっと若い。母はしゃがんでいて、その腕にまだ赤ん坊の弟が抱かれている。私はその右隣で、母の膝に手を置いて立っている。私は赤いチェックのジャンパースカートをはいている。反対側には新しい首輪をした、白い子犬が繋がれている。これは白が家にもらわれて来た日に撮ったものだ。写真の中の小さな私はカメラの方を向きながらも、子犬の事を気にしている。
私はこの写真を見て突然理解した。白はもう帰って来ない。根拠があるわけではなく、私にはただそれが分かった。
ああそうだ、白はもうどこにもいないんだ。
写真を一枚選んで階下に降りた。居間では弟がタオルで汗を拭きながら麦茶を飲んでいた。「どうだった?」と聞くと「ダメ。居なかったよ」と答えた。
弟は私が持っている写真を見て「何それ?」と聞いた。
「白の写真。貼り紙に使うのよ。「犬を探しています」って」
「よく電柱とかに貼ってあるやつ?それって効果あるのかな」
そう言って弟は麦茶を飲み干した。カラン、と氷が涼しげな音をたてた。
私は弟に白の写真を見せた。
「ああ、これ…懐かしいなぁ」
「浩史、お膳の上片付けて。みすず、こっち運ぶの手伝って」
台所から母が声を掛けた。私は写真とレポート用紙を、私が座るはずの座布団の横に置いた。そして台所にそうめんを取りに行った。
昼食が終わると弟は部活があるからと出て行った。弟はそんなに大きくないのにバスケットをやっている。これから身長が伸びる予定なのだそうだ。弟は「帰りにまた探すよ」と言ったが、「無理しなくていい」と言っておいた。母は洗い物をしている。
お膳の上を布巾で拭き、レポート用紙を置いた。それから、テレビの横の小さな戸棚から太字と中字の両用になっているペンと定規を取り出した。
色んな文句を考えてみたが、結局シンプルなものに落ち着いた。太字で「犬を探しています」と書き、その下に白の写真を張り付けた。それから白の特徴と連絡先。下の部分は後で短冊状に切り込みを入れる予定で、そこにも細かく連絡先を書いた。
母に見せようと思って台所に行ったが、そこには居なかった。居間と台所に居ないという事は、寝室で昼寝でもしているのだろう。
私は部屋に財布を取りに行き、戸締まりをしてから家を出た。そして自転車で、一番近くのコンビニエンスストアへ向かった。
コンビニエンスストアの中は必要以上に涼しかった。むしろ寒いと言った方が適当だろうか。店員の着ている制服は長そでだ。あまり長居すると凍えてしまうし、この温度に慣れてしまうと外との気温差がつらくなる。
コピー機は入ってすぐの所にある。店員の目が届く範囲だ。
百円玉が二枚あったので、とりあえず二十枚コピーをとった。写真の部分が少しつぶれて分かりづらくなったが、まぁ仕方ないだろう。それに白は白い犬だから、カラーコピーにしてもあまり意味がない。
外に出ると、日ざしが容赦なく私を刺した。午後二時、一番暑い時間帯だ。
自転車のカゴにコピーを入れ、その上に財布を重しとして置いた。入っている金額は軽いのだけれど。後で母にコピー代を請求しよう。アルバイトをしていない高校生にとっては二百円程度でも貴重な財産なのだ。
自転車に乗り、もと来た道を戻る。犬の姿は一匹も見かけなかった。そういえば、昔は野良犬がけっこういた。その中に、白と散歩をしている時にいつも寄って来る犬がいて、私も白も本当に迷惑していた。その茶色い中型犬の雑種について、白は「あの犬(ひと)は何にもできないくせに、口ばかりが大きんです。それに、何か食べ物を持って来いなんて言うんです。だけど何かもらっても絶対に「ありがとう」なんて言わないんです。それが当たり前と思っているんです」と言っていた。白が他の犬を批判するのは珍しかったのでそう言ってみると「味醂ちゃんがいじめられたんです」とぽつりと言った。味醂というのは近所の酒屋が飼っていたメス犬の名前だ。白より一つか二つ年下で、言わば幼馴染みのようなものだった。おとなしくて気立てのいい犬だったが、今から三年前ほど前に病気で死んでしまった。
茶色の野良犬はそれより前にいなくなっていた。噂によると、団地の子どもに噛みついてしまった為に保健所に連れて行かれたらしい。それは団地ができたばかりの頃で、住人達はこの野良犬がどんな犬かという事を知らなかった。
白にこの野良犬の話をしてみたが「そうですか」と言ったきり黙ってしまった。私には白の言いたい事が分かってしまった。「何も殺してしまう事はないじゃないですか」。私には続ける言葉がなかった。いつか耳に入る事だろうが、飼い主の私が白にこんな話をするのは、少し無神経だったかもしれない。
鍵を開けて家に入った。外出していた時間は十分にも満たないだろう。母はまだ眠っている。
居間に入ってクーラーを点けた。そしてテレビの横の戸棚からはさみを取り出す。コピー用紙を五枚ずつ重ねて分け、切り込みを入れていった。
はさみを動かしながら、私はこんな事をするのは無駄ではないだろうかと思った。白がもう戻って来ない事は分かっているのだし、私は無駄な事をするのが大嫌いなのだ。けれど――それでも私はこの作業をしなくてはいけないような気がした。
白は先に何処かへ行ってしまったけれど、私達が白を探そうとする事が、白を送り出す事になる。白を送り出すためには、私達は白の事をたくさん思い出さなくてはいけない。白がどんな犬だったのか、白は私達に何をしてくれたのか、そして、私達は白の為に何をしたのか。
この貼り紙の写真の白は、エサを与えられようとして、おあずけされているところだ。
父が忘年会の景品でコンパクトカメラをもらい、私と弟に「二人で使いなさい」と言ってそれをくれた。弟は、共用とはいえ自分のカメラが嬉しかったらしく、いろんなものを撮っていた。この写真はその時に撮ったうちの一枚だ。弟はシャッターを切るのは好きらしいが、できあがった写真には興味がないようなので、私が保管していたのだ。他に、水道の蛇口のアップや弟の手のひらなどのくだらない写真もたくさんあったが、それらは箱に入れて物置きに仕舞ってあるはずだ。
この時白は、弟が「構図が決まらない」とかでなかなかシャッターを押さず、写真を撮りおえるまではエサが食べられないのでいらいらしていたようだ。実際は構図も何も関係なく、弟は覚えた言葉を使ってみたかっただけだったのだ。白としてはいい迷惑だっただろう。
最後のひと組が終わった。これを電柱に貼らなければいけない。けれど少し疲れてしまった。
私は座布団の上に頭を乗せてごろりと横になった。そしてつい、うとうとして眠ってしまった。
目が覚めたら三時を少し回っていた。頭が働かないので、しばらくの間ぼんやりと天井を見つめる。
母が高校野球を見ていた。わたしはのそりと体を起こした。
「おやつ食べる?」と母が聞いた。
「うん」
「じゃあ、桃が冷蔵庫に入ってるから剥いて来て。お母さんの分も」
「……」
私が仏頂顔をすると、母に「あら、美人ねぇ」と言われてしまった。脱力しつつも、仕方がないので台所に行って桃を剥いた。
高校野球を見ながら母と私は桃を食べた。母はこの時、白の名前の話をした。母は静かに白を送り出そうとしていたのだろう。
夕方と呼ばれる時間になったが、外はまだ明るかった。そろそろ貼り紙をしに行かなくてはいけないだろう。出かけるのなら一緒に出ようかと思い、母に聞いた。
「お母さん、今日買い物に行く?」
「昨日済ませたから今日は行かないけど、何か買うものがあるの?」
「別にいい。あ、貼り紙のコピー代二百円ちょうだい」
「がめつい子ねぇ」
だったらもっとこづかいをくれ、と思ったが口には出さなかった。どんな中傷も甘んじて受けよう。お金が返って来さえすれば、それでいいのだ。
貼り紙をしてくると言い残し、自転車で出かけた。公園に行くまでに四箇所貼った。団地を抜けたところでまた一箇所。剥がす時の為に何処に貼ったかを覚えておかなければならない。
川の方へも行った。家から見ると、公園は東の方にあり、川は西の方を流れている事になる。
私は白との散歩で川に来る事はなかった。川の方が公園より家からずっと遠いうえに、河原に来ると白は走りたがったからだ。昔一度だけ一緒に河原に来て、あまりに疲れたのでそれで懲りてしまった。白と一緒に走るのは体育の授業よりきつかった。
最近は白も足が悪くなったから、あまり遠出をする事はなくなっていた。川にももう来ていなかっただろう。
二十枚全部をあちこちに貼り付けて、私は帰宅した。この貼り紙を見た誰かに、白は保護されるだろうか。
午後七時頃、弟が帰って来た。弟は「探してみたけどやっぱりいなかったよ」と言った。
母と弟と私は三人で夕食をとった。この家では、朝食は台所でとり、他の食事は居間でとるという決まりがある。私が小さな時からずっとそうだった。
食事の話題はやはり白の事だった。あの首輪。誰かが外したと考えるのが一番適当なのだが、やはり疑問が残る。
弟が「きっと宇宙人に連れ去られたんだ」と言うと、母は嫌な顔をした。母はオバケとか宇宙人とか、そういった類いの物が嫌いなのだ。
弟は部活の事に話を移した。今度練習試合があるらしく、弟は頑張っているようだ。我が弟ながら健全な道を歩んでいて嬉しい。母も熱心に聞いていた。そして最後に「バスケットを頑張ってるのは偉いと思うけど、宿題もちゃんとしなさいよ」と釘を刺すのを忘れなかった。
食事が終わり、各自食器を流しに運ぶ。夏休みの間だけ私が夕食の洗い物をする事になっていた。弟は風呂に入るからと、着替えを取りに二階へ上がった。母は居間で洗濯物にアイロンをかけている。
洗い物が終わり、私は部屋から夏休みの宿題を持って来た。自分の部屋では暑いのでとても勉強などできないのだ。
もし宿題に絵日記があれば、私は白の事を描いたんだろうなと思った。
|