文鳥まつり

 それから一週間が過ぎるのは、なんとゆっくりだったことでしょう。文太が「もう夜が明けているかしら」と思って目を開けると、まだ月明かりがさしているという事がしばしばありました。  その間にも、おじさんは相変わらずたくさん餌を食べていました。

 けれど、とうとうその日がやってきたのです。
 正太は文鳥たちのために、がんばって朝の四時に起きました。そして眠い目をこすりながら、鳥かごの中の餌と水を替えました。おじさんと文太は美味しそうに餌を食べました。
 明けてゆく空には、取り残されたように白い月が浮かんでいます。
 正太が窓を開けると、朝の冷たい空気が入ってきました。けれど、今日もきっと暑い日になるでしょう。
 おじさんは珊瑚色のくちばしで、文太の羽をきれいにつくろいました。
「絶対に無理をしちゃいけない。疲れたらすぐおじさんに言うんだぞ」
「うん、分かったよ」

 準備が整い、おじさんは正太に「坊ちゃん、そろそろ行こうと思います」と言いました。
 正太が鳥かごを開けるとおじさんと文太はするりと出てきて、差し出された正太の腕に止まりました。正太はじっと二羽の文鳥たちを見て
「気をつけてね。絶対帰って来るんだぞ」
と言いました。
 文太は「大丈夫だよっ」と元気に答えました。
「じゃ、坊ちゃん。行って来ます」
「じゃあね、正太君」
 二羽の文鳥はふんわりと小さな羽を広げたかと思うと、風のように窓から飛び出しました。
 正太は文鳥たちに向って手を振りました。けれどその姿はあっという間に遠ざかり、消えてしまいました。
 気が付くと空の色はさっきよりずっと明るくなっています。正太はあくびを一つして、窓を閉めました。

  ***

 明け方の街はまだひと気も少なく、空気もしんとしています。
 おじさんに教えてもらった飛び方で、文太は風に乗りました。
 加速するほど風は冷たくなっていきましたが、文太は平気でした。空から見る初めての景色に、すっかり心を奪われていたからです。こんなに広い世界があったなんて。文太は、正太君はどうして自分たちを狭い鳥かごに入れておくのだろうかと、不思議に思いました。
「文太、あんまりよそ見ばかりしてたら危ないぞ」
 おじさんの声にはっとし、文太はあわててその後を追いかけました。しばらくしてから、文太はおじさんに尋ねました。
「ねえ、おじさん」
「うん?」
 おじさんは少し早さを落として、文太の横に並びました。
「正太君たちはどうして僕たちを鳥かごに入れるのかな」
「ううむ」
 少しの間、おじさんは黙ったまま遠くの方を見つめていましたが、やがて言いました。
「外には危ないことがたくさんあるんだ。正太君は私たちのことが好きだから、守ってくれているんだよ」
「そうなのかなぁ」
 文太はちょっと考えてみましたが、よくわかりませんでした。けれど一つだけ、時々こんなふうに自由にお出かけができればいいんだけどな、と思いました。
 しばらく飛んでいると、緑の茂った場所が見えました。
「そろそろお腹が空いたな。あそこでひとやすみしよう」とおじさんが言いました。

 そこは大きなマンションが立ち並ぶ真ん中にある公園でした。ブランコや滑り台では小さな子どもたちが遊び、木陰のベンチではお母さんたちがおしゃべりをしています。
 太陽はもうだいぶ高く昇って、汗ばむような暑さです。けれど、文鳥たちにとってはこれくらいの気温がちょうど良いのでした。
「文太、ここで餌を探そう」
「えっ、自分で探すの?」
「そうだよ。外ではこういう事も自分でやらなくちゃいけないんだ。それから、誰かにつかまりそうになったら逃げなきゃいけない。そのまま飼われてしまうかもしれないからな」
 文太はそれを聞くとぶるっと震えました。文鳥まつりにも行けないまま、こんな知らないところで誰かに飼われては大変です。それに、自分にはもう正太君という飼い主があるのですから。
「うん分かった、つかまらないようにするよ」
「よし、気をつけてな。じゃあ餌を探そう」
 おじさんと文太はそれぞれ餌を探しました。
 文太はやわらかい木の芽をかじりながら、外で暮らすのは大変なんだなと思いました。けれど、それ以上に楽しいことがあるようにも思えました。
 文太たちが餌を探している間、子どもたちは水飲み場で水遊びをしていました。やがて子どもたちがそこから離れると、文太はそっと水飲み場に近づきました。おじさんもやって来て、水飲み場に残ったしずくを一緒に飲みました。
「おじさん、僕、水浴びしたいな」
「ここでは危ないから、がまんしなきゃいけないよ」
 文太はつまらなさそうに「ちぇっ」と言うと、羽をぱたぱたさせました。
 羽音に気づいたのでしょうか、一人の子どもが文太を指さして「あ、とりだー!」と叫びました。 「文太、逃げるんだ!」
 おじさんはそう叫ぶや、すばやく飛び立ちました。文太も急いで後を追いました。
 お母さんの一人が空を見上げ
「あら、文鳥だわ。どこかから逃げたのかしら」
と言うと、子どもたちは口々に
「ぶんちょー!ぶんちょー!」
と叫び、手を振りました。
 もちろんふたりは逃げるのに夢中で、それに応える余裕などありませんでした。

  ***

 真昼を少しすぎると、太陽の光は刺すように強くなりました。こういう時は休んだ方がいいとおじさんが言い、ふたりはどこかの家の静かな庭で昼寝をしました。
 文太は最初「昼寝なんかしなくても全然平気だよ」と言っていました。けれど自分では気付かなくてもやはり疲れていたのでしょう、ぐっすりと眠りました。そして起きた時には、さっきよりずっと元気になっていました。
 夜になるまでに、ふたりはもう少し飛ばなくてはいけませんでした。

 正太の家からは、もうずいぶん遠く離れてしまったはずです。いまや、ふたりの下には緑色の田んぼが広がっていました。稲の葉がなんとも気持ちよさそうに揺れていたので、ふたりは歌を歌いながら飛びました。
 しばらくすると、遠くからガタンゴトンという音が聞こえてきました。
「おじさん、あの音は何だろう?」
 おじさんはじっと耳をすましました。
「あれは人間が乗る乗り物の音だよ」
「乗り物なら僕知ってるよ。クルマっていうんだ」
 文太は鼻高々に答えました。おじさんはかむりを振って
「あれは車じゃない乗り物だよ。デンシャとかなんとか言ったかな」
と言いました。
 おじさんの言うとおり、音の正体は電車でした。電車は田んぼの間を縫うようにして、文太たちの方へと向かってきました。
 その姿を見て、文太は
「わあ、デンシャってずいぶん長いんだねぇ」
と目を丸くしました。
 おじさんは「デンシャはたくさんの人を運ぶ乗り物で、とても早く走るんだ」と文太に説明しました。文太はおじさんが物知りなのに感心しました。
 おじさんの言ったとおり電車はとても早く走り、もう文太たちのすぐ近くまで来ています。
 不意に、文太の心の中に電車に対する競争心がわいてきました。そしてそれは夏の入道雲のようにムクムクと広がりました。
 文太は
「僕、あんなのよりずっと早く飛べるよ」
と言うと、全速力で飛び始めました。
 おじさんが「コラ、やめるんだ!」と叫びましたが、きっと文太には聞こえていなかったでしょう。文太はすっかり競争に夢中になっていました。風は文太の味方となり、文太をより早く、より遠くへ運びました。
「おじさん、見てよ!すごいだろう!」と文太が得意げに振り返るのと、おじさんが「あぶない!」と叫んだのはほぼ同時でした。近くの木にとまっていたカラスが、急に文太の前に飛び出してきたのです。
 カラスの大きさは文太の五倍も六倍もありました。そして長いくちばしとするどい爪を持っていました。
 カラスはじろりと文太をにらみました。
「なんだお前。見かけないやつだな」
 カラスににらまれた文太は、恐怖に震えるしかありませんでした。
「文太、逃げるんだ!」
 おじさんの声に、文太は我に返りました。
 文太はひきつりながらもなんとか逃げようとしました。けれどこの時、風は無情にも文太に味方をしてはくれませんでした。
「待てーっ!」
 カラスは大きな黒い翼を広げ、文太を追いかけました。その早さといったら、とうてい文鳥がかなうようなものではありません。けれど、文太は泣く事も忘れて逃げました。
 この時、おじさんはどうしていたでしょう。おじさんには勇気を振り絞るための、ほんの少し時間が必要だったのです。ひょっとすると、それは一秒にも満たない時間だったかもしれません。おじさんは自分の中にある、あらゆる勇気を振り絞りました。そして、これから使うはずの勇気の前借りまでしました。
 カラスが文太の体に爪をかけようとした、まさにその時です。おじさんは電車よりも風よりも早く飛びました。そして思いっきり、カラスの横腹に体当たりをしたのです。
 不意を突かれたカラスはバランスを崩し、キリキリ舞いをしました。その間に、おじさんは文太をかばうようにしながら逃げました。

 電車は、もうずっと遠くへ走り過ぎていました。

 文太とおじさんは農家の庭の木に隠れ、じっとしていました。ここならきっと、カラスは近付いてこないでしょう。
 夕陽が空を茜色に染める頃になっても、文太の震えはまだ止まりませんでした。おじさんはくちばしで、ぼさぼさになった文太の羽を丁寧につくろいました。
 そうするうちに緊張がほぐれてきたのでしょう。文太はうつむいたまま、小さな声で
「おじさん…」
と言いました。おじさんは何も言わず、文太の羽をつくろい続けました。文太は独り言でも言うように、ポツポツと話しました。
「僕、とっても恐かった…。あんなことになるなんて、思ってなかったんだ…。僕…、僕…」
 ふいに文太の目から涙がこぼれ出し、その先は言葉になりませんでした。
 おじさんはそっと、くちばしを文太から離しました。そしてやさしくこう言いました。
「ちょっと早いけど、今日はここで泊まろう。明日はカラスより早起きしなくちゃな」
 文太は何も言えず、ただ小さくうなずくばかりでした。そして、心の中でおじさんに「ごめんなさい」と「ありがとう」を言いました。泣き疲れて眠るまで、何度もくり返しました。

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